探訪!オートデスク株式会社
1980年代のAppleのMacintoshやAdobe Illustratorの登場を機に、デジタルに変化してきたクリエイティブ環境。今のデジタル制作環境が構築されるまでに、どのような試行錯誤があったのでしょうか。また、これから先のクリエイティブにおいて求められるのはどういった力なのでしょうか。デジタルデザイン黎明期を走ってこられた株式会社エーアールディー代表取締役の菊池美範様に、当時のことを知らない新卒3年目 Tooの古正がお話を伺いました。
菊池美範 様 株式会社エイアールディー 代表取締役兼アートディレクター/クリエイティブディレクター 1960年熊本県生まれ。多摩美術大学卒。広告代理店、広告制作プロダクションを経て、株式会社エイ アールを共同設立。グラフィックデザイン、エディトリアルデザインの分野で代表取締役兼アートディレクター/クリエイティブディレクターとして勤務。2010年にデザイン戦略/出版事業を中心とした株式会社エイアールディーを設立し、代表取締役を兼務。2015年にエイアールを解散。以降、エイアールディー代表取締役兼アートディレクター/クリエイティブディレクターとして活動中。アナログ時代のデザイン
古正:デジタルネイティブ世代の私にとって、デザインを形にするにはパソコンに向かいソフトを使うことが当たり前です。Macintoshやアドビ製品が登場する前は、レイアウトにどのような工程が必要だったのでしょうか。
菊池美範様(以下、敬称略):私がデザインの仕事を始めたのは1970年代後半です。打ち合わせはすべて対面か電話で、FAXが最先端のツールという時代でした。その頃Tooさんの社名は「いづみや」さんでしたね。アナログ画材ではとてもお世話になっていて、いづみやさんなしではデザインの仕事は成立しませんでした。
当時の現場はどうだったかというと、まず写真はデジタルではなくすべてフィルムでした。フィルムをプリントして、紙焼きというものにします。また、今ではデジタルで上がってくるイラストも、原画を預かっていました。こうして集まった紙焼きや原画は実寸大のものですので、いづみやさんでも扱っていたデザインスコープで拡大縮小などをしてトレースをします。こうして素材が集まったら、レイアウト用紙に設計図を書くわけです。
この設計図をもとに、トレースした紙焼きや原画を貼りつけて、トンボが描かれた版下 というものを作ります。今では信じられないかもしれませんが、当時トンボは定規を使って手で書く必要がありました。広告や新聞などサイズが大きいものは狂いが出やすく、許容範囲の誤差は0.1mm以下、私が新人の頃はそれを超えると、アートディレクターによく怒られていました。さらに、文字に関しては写植という作業が必要でした。フォントの種類、文字間の詰めなどをすべて手書きで指定し、専門の会社に文字の作成を頼むのです。
こうして制作した版下を印刷所に出す際は、フィルムや紙焼き、原画も一緒に送らなければいけません。版下にどの写真、イラストが入るかわかるように、それぞれに番号を振る必要がありますが、現物に直接番号を振るわけにはいかないので、一枚一枚透明な袋に入れて番号を書いていました。雑誌や書籍だったらそれは膨大な量で、編集者やアシスタントデザイナーがとても慎重に作業していました。
確認作業も、チャットやクラウドストレージで管理なんてこともありませんから、直接現物を持って行って確認してもらうしかありません。修正作業も一苦労ですし、印刷所にお願いしなければいけないのでお金もかかります。だから、大きな間違いをすると大目玉を食らうのです。その後何年か経って、安価なFAXが販売されて一般のデザイン事務所にも設置されるようになりました。モノクロならFAXで確認作業ができるようになったので、当時としては大革命でした。これがだいたい1980年代の前半です。それから数年後、Macintoshが日本に入ってきました。1980年代の後半です。
試行錯誤のデジタルデザイン黎明期
古正:今から考えると、途方もない作業量に感じます…!Macintoshの登場で、デザインの環境はどのように変わったのでしょうか。
菊池:私がMacintoshを使い始めたのは1989年です。機種はMacintoshⅡでモニターは13インチでした。それでも、カラーが出ること自体が当時はすごかったんです。日本語がきれいに印刷できるのは、モリサワさんの「リュウミン L」と「中ゴシックBBB」の2書体だけでした。それらが印刷できるプリンターがAppleから発売されて、簡単なデザインであれば、版下のようなものがコンピューターで作れるようになりました。
Macintoshを使うようになったものの、使える書体が少ない、印刷の仕上がりが思った通りにいかない、カラーが綺麗ではないなど課題は山積みでした。これらを全部コンピューターに置き換えてもいいかな、という風潮ができたのはそこからかなり時間が経って1990年代の終わり頃になってからです。それまではアナログとデジタルが併用で、例えばデータはデジタルで作るけれども、入稿作業をするためにはフロッピーディスクなど物理的なディスクを印刷所に宅配便やバイク便で送らなければなりませんでした。その後、データで入稿することもできるようになりましたが、通信速度は今の何十分の一ほど。インターネット専用回線もなかったため、写真1点に文字が入っただけのデータを送るだけでも非常に時間がかかりました。
完全にデジタルに置き換わったのは、2005年以降です。インターネットのスピードが変わり、データはサイズが小さいものであればメール添付、サイズの大きいものは入稿用のサーバーにアップするのが当たり前になりました。その頃になると、Tooさんにお願いするのはソフトウェアなどのデジタル製品が主となってきました。
最初の頃はデジタル製版がうまくいかず、エラーとの戦いでした。最後まで問題があったのは写真です。特に色や解像度の問題は大きく、フィルムの方が仕上がりが綺麗でした。それらの課題を乗り越えて、2010年頃になると写真もデジタルで扱うことが当たり前になりました。デザイナーは、写真データをそのままInDesignやIllustrator、Photoshopでデザインできる時代になったのです。
古正:最先端のツールがすぐに戦力になった、というわけではないのですね。トライアンドエラーの繰り返しだったデジタル黎明期、菊池さんが特に苦労されたのはどのようなところですか。
菊池:苦労したところは、プラットフォームの変化とバージョンアップです。最初の頃はQuarkXPressというページレイアウトソフトが主流でしたが、今ではほぼInDesignです。この乗り換えがものすごく大変で、QuarkXPressで作った本や雑誌のデータ移行が必要でした。異なるソフトの操作を覚えるのも一苦労でしたね。また、フォントのバージョンやデータの互換性がとても重要で、アップデート作業は慎重にならざるを得ません。2005年から2010年ぐらいにかけて、これらの問題がとても多かったです。
バージョンが上がったのはソフトだけでなく、MacのOSもです。2000年頃にOS 9からOS Xへ移行し大きな変化が起こりました。「動くけれど遅い」など、苦労は絶えませんでした。中小のデザイン会社がデジタルに移行するのに、最後までネックになったところかもしれません。当時、デザイン会社にいてシステム管理者も兼ねていたときは、スタッフのマシン環境を全部統一しつつ、仕事によって細かいオーダーに合わせていたので、連日徹夜も多かったですね。
デジタルの時代に求められるのは、想像力とコミュニケーション能力
古正:クリエイティブワーク全般がデジタルに置き換えられ、思考の部分で変化はありましたか?
菊池:それは意外となかったのです。デザイナーは基本的に、最初のアイデアは紙にペンを使って書きます。机に向かうのではなくて、散歩中やお風呂でパッと思いついたことを書き留めています。デザイナーやクリエイター自身の「これをやりたい」が決まらないと、ネットで検索しても迷うだけなのです。まずは自分で考える、そしてイメージが頭に浮かんだら、必要な条件をネットで検索して探す。なので、アイデア出しやイメージを固めるまでの時間は、ほとんど変わっていません。
ただ一つ変わったのは、プレゼンに関してです。アナログの時代は、代理店の人やクライアントさんがずらっと並んで、仰々しく大きなボードを使って行っていました。また、例えばタレントさんが新製品のドリンクを飲んでいるポーズが必要な場合、カンプライターという専門の職業の方に、絵を描いてもらう必要がありました。今はPhotoshopで簡単に合成できますし、Adobe Stockのようなものを使えば素材がたくさんあります。これによって、手を動かす作業に費やす時間はぐっと短くなりました。
当時はいくら精密なカンプがあっても完成品とは違うわけですから、クライアントもデザイナーも真剣勝負でした。クライアントは想像する能力が、デザイナーは自分の作品に対して言葉で説明できる力が必要でした。今では、あまりにも早くカンプが仕上がるものですからクライアントもその状況に慣れてきてしまいました。さらに、3DCGなどを使えばよりリアルな完成図を見られるようになりました。一方で、本物そっくりのカンプは情報量が多すぎてしまうために、受け手のアンテナが発達していないと混乱してしまいます。また、より細かな部分を指摘できるようになったため、さらに丁寧な説明を求めるようになりました。デジタルが発展したことで、クライアントの想像力、デザイナーのコミュニケーション能力はさらに重視されるようになりました。
デジタルに頼れるようになり、アシスタントデザイナーや新人デザイナーによる徹夜作業は必要がなくなりました。アシスタントは今、デジタルの世界にいるのです。その代わりに、アートディレクターは少しポジションを変え、ディレクションやコンサルティングのような戦略側を兼ねる必要が出てきました。
クリエイティブの本質を見つめ直す
古正:試行錯誤の中で、菊池さんを動かした原動力はどこにあったのでしょうか。
菊池:昔から、あまり器用な人間ではありませんでした。それこそ版下を作れば先輩に怒られるものですから、大っ嫌いな作業でした(笑)。美大や専門学校を卒業して夢をもってクリエイティブ業界に入ってくる若者が、こうした作業に消耗され尽くされていたのです。当時は、デザインやクリエイティブの本来追及すべき部分のために、手を動かす部分はデジタル化してしまえばいいと思っていました。
今が多少不自由でも、やれば必ず改善されると信じていました。それで実際、現在の姿があるわけですからね。私自身ちょっとオタク体質が強いので、苦労だとは思っていませんでしたし、好きでやっていました。すごく楽しい30年間でした。若い方は、こうした形を当たり前のインフラだと思っているはずですので、昔話は「そういう時代もあったよね」と笑い飛ばしてください。でも、デザイナーとしてのクリエイティブとは何か、社会におけるクリエイターの存在とは何か、より良いクリエイティブとは何かを極めてほしいです。
古正:デジタル化によって生み出された時間を、これからはデザインの本質に向き合うために費やす必要があるのですね。さて、菊池さんにとってTooとの印象深い思い出をお聞きしたいです。
菊池:いづみやさん時代に遡りますが、一番の思い出は高校時代です。私は愛知県にある高校のデザイン科に通っていましたが、当時いづみやの営業さんが、ワゴンでスケッチブックなどの画材を販売しに学校に来ていました。その方から、未来のデザインのために学生さんをサポートするのがとにかく嬉しいんだという話を聞いた覚えがあります。デザイナーやクリエイターを育てるためにと、雨の日も風の日も画材を届けてくれました。今でも鮮明に記憶に残っていますし、あの頃からデザインといえばいづみやでした。
古正:この先、Tooにどのようなことを期待されますか?
菊池:若いクリエイターへのサポートです。時代や環境が変化する中で、画材やソフトウェアだけのサポートではなくて、人と人、クリエイター同士を繋ぐといった、クリエイターさんとTooさんとの関係を大切にしてほしいです。モノよりコトとよく言われますが、クリエイティブにどんな環境が必要か、クリエイターとしてこれから生きるためには何をすべきなのか、アイデアの集積みたいなものを提供してもらえると嬉しいです。
例えば、農業に関したデザインとマッチングする仕事を得るにはどうすればいいかや、これから大きく変わるであろう自動車のデザインに携わるにはどんな業界に入るのがいいか…など。こうしたところに寄り添って、次世代の方の成長をサポートしてくださるといいですね。クリエイターがより良いものを実装するためのサポーターとして、Tooさんがいるとすごく心強いと思いますし、クリエイターの心に一生残る存在になると思います。
古正:今当たり前となっている制作環境も、こうした挑戦の繰り返しで実現できたものなのですね。時代の変化とともに手段も変化する中で、クリエイティブの意味や意義を、Tooの一員としてさまざまな観点から見つめ直したいです。菊池さん、ありがとうございました。